健全な社会生活を営みたいのであれば、まずその社会のルールを知り、それに相反しない行動をとることが必要不可欠である。一見誰もが知っているような事柄であるが、実は誰もが守れていない。
ここで、私は決して法律・社則などの明文化されたルールに限定して論じようとしているのではない。社会の中にはそれだけではなく、複数人のつながりの中で極自然に作られたルール、いわゆる不文律というものが存在しているのである。
では、誰もがルールを守れていないとはどういうことであろうか。これが、不文律の盲点に相当する。
不文律というのは、明確に定義された文章が存在していない。従って、個人にその情報が伝達される途中において、何らかの誤り、即ち勘違いが容易に起こりうるのである。個人がその誤ったルールを、真のルールだと勘違いした場合、個人はルールに沿った行動をとっているつもりでも、大多数がその個人をルール違反と認識する。そして誰しも、そこに生じた伝達の誤りを認識することが不可能なのである。すると誤りは知らず知らずのうちに連鎖し、不文律は各個人にギャップを与えた形で、抽象的な概念として宙に舞うのである。
一つ例を挙げよう。

http://umi.no-ip.com/simple/pdone.html?id=408

たまにトイレットペーパーを三角に折りたたんで帰ることで上品ぶる人がいるが、あれは、実は清掃員が清掃の終了を表すサインなのである。恐らくその人たちの大多数は、清掃が終了したピカピカのトイレで、ペーパーが三角にたたまれている光景を目の当たりにし、その形を美しく思ったのであろう。そして用を済ませた後のマナーであると誤認識してしまったのである。その連鎖によって、トイレットペーパーを三角に折りたたんで帰る妙な民族が出来上がってしまったわけである。恐らく彼女たちは、今もそれを上品なルールと信じ込んで、三角折りをしているに違いない。
このように、ルールの伝達の誤りは簡単に生じるのである。故に冒頭で述べた、「その社会のルールを知り、それに相反しない行動をとること」など、その文の流通性とは裏腹に、誰もが守れていないのである。