義務教育の意義

 人間の脳は、実に10テラバイトに上る容量を持つと言われている*1。性格というOSを詰め込むには、これは非常に十分な量であろう。ここに、情や念、愛、欲がプログラミングされているわけである。この脳の中に、更なる効率的なシステムを構築する過程が、わが国内では用意されている。それが「義務教育」だ。
 以前はてなにて、『どうして勉強しなきゃいけないの?*2』という質問を発見した。質問の根は小1の女児によるものらしいが、私はこの質問自体が持つ純粋な意味に興味を持った。
 そもそも、勉強の必要性を説明することは難しい。相手が勉強にメリットを感じていない場合は、なおさらのことだ。メリットのないことを説明するには、相手の知らないメリットを取り上げるか、精神論に持ち込むしか、方法はないであろう。冒頭で述べたとおり、全ての国民は、少年時代に義務教育を経験する。そしてそれは、少年を成長させる一方的な手段でしかないのである。
 必死で勉強しても、身にならない場合はたくさんある。私は中学校時代に「歴史」の教科を必死に勉強したが、その知識のほとんどは、脳内から去ってしまっている。あの頃、興味のあった数学を勉強したほうが何度良かったことかと、今でも思っている。ところが、小学校に入る前は私は英語に興味を持っており、数学など、勉強しなければ名前すら知ることはなかった。
 すなわち、義務教育とは、勉強を通してその人に幅広い教養を身につけさせることのできる機会であるということになる。これは個人を見れば効果は多様だが、全体的には、そういうことになるのだ。したがって結局、私の中での『どうして勉強しなきゃいけないの?』への解答はこうなる。
 「数年前にも同じことを聞かれたが、その人は、勉強によって立派な人になったよ。」
 尚、ある程度興味を持てば勉強は趣味。仕事で使う勉強は所詮仕事の一環でしかない。