我々は、常に自由の脅威にさらされている。幼い頃は書き込んでは足りなくなっていった自由帳も、どうだろう、今目の前にすると何から書き込んでよいかわからなくなる。そもそも、人生そのものが自由帳なのだ。与えられた数枚の無地に、文字でも絵でもいい、とにかく好きなものを書き込むわけである。
ところが、「これから、何をしてもいいですよ」と言われたら、恐らく自分は何もできないに違いない。することがありすぎて迷っているわけではない。無論、それもあるだろうが、一番は、行動することによる秩序の乱れが否めないからであろう。人間、全く自由な世界で行動することはできないのだ。
話が漠然としているので、例を示す。例えば、アルフレッドがビアンカという女性を愛していたとする。ところが、ビアンカは別な男性クリスにぞっこんである。到底アルフレッドに振り向いてはくれない。本当に人間が自由に行動できるのなら、アルフレッドは迷わずクリスを殺して、本能に従いビアンカに強姦するであろう。ところが、クリスの死に直面したビアンカが自殺をしてしまったらどうだろうか。アルフレッドはもはやビアンカに強姦することはできない。これは自由とは呼べない代物である。もしアルフレッドが事前にビアンカの心の弱さを察し、かなわぬ愛とあきらめてそっと一生を終えるとしたら、それも出だしから自由ではないであろう。自由ではないのだが、この問題の選択肢に全く自由に行動できるパターンは存在しない。自由な行動を牛耳て手詰まりに陥った例が前者であり、最初に我慢した行動をとって自由を得た例が後者であるからだ。
ルフレッドに限らず、人間は行動する上で、常に事実の束縛を受ける。予測と事例の入り混じる無限個から、最適解としての有限個を選ぶ必要があるのである。例え、それが完全なる自由を称えた物でないとしても。
そんなわけだから、我々は自由帳にいきなり書く能力を持ちあわせない。ペンを持ち、ひしと構えた右手は、常に事実の束縛を受けている。