ドリンク剤の存在意義

午後。昨晩徹夜した割には体力があったので、少々胸躍るものがあったのであるが、そう経たないうちに今朝ドリンク剤を飲んだことを思い出した。なるほどやはり原因があったのかと、私は肩を落とした。それと同時に、ドリンク剤というものの存在の大きさを改めて実感させられた。
私が肩を落としたのには、もう一つ理由がある。それはドリンク剤の効果を、自分の身をもって実感してしまったからである。
私は、相当疲れていない限りドリンク剤を飲まない。疲れている際にドリンク剤を飲めば効果が現れるのは当然であるが、あえてそれをしないわけである。なぜならば、ドリンク剤というものの存在をある程度肯定しなければ、疲れている自分に残された選択肢は、耐えることに限定されるからである。自分はそれほど軟弱ではないので、耐えることそのものを惜しんだりはしない。しかし、耐えること以外に楽な選択肢があれば、快くそちらへ進んでしまうのが当然の心理といえよう。さて、ここで問題になってくるのが、耐えた場合と楽をした場合(即ちドリンク剤を飲んだ場合)に得られる効率というのは、どちらが大きいかということである。実は、これらはどちらも同じなのである。よく考えてみればすぐわかる。疲れているときには必ずそれ相応のノルマがあるものであるが、結局このノルマを達成するという点でなんら変わりはないのである。むしろ、ドリンク剤を飲んだ方が150円ほど消える。