今日は誕生日であった。誕生日とは言えど、結局は自分がこの世に生を受けてから地球が太陽の周りを1周しただけなのであるが、そんな理由であれ自分がこの一定時間を楽しむことができるということは、やはり記念日の威力なのであろう。
記念日というものは、大抵、元になったものを直接祝うということはない。誕生日は自分の誕生を祝うものではなく、年齢の更新を祝うものとして扱われる。さらにはその基盤から外れて、12月26日という日付が独り歩きを始める。昨日はクリスマスであったが、これはもはやイエス・キリストの誕生を祝うものではなく、12月24〜25日という日付が独り歩きをした結果であろう。
しかしこの現象は批判的に捉えられるべきものではなく、むしろ人間の概念の当然であるといえる。日付の独り歩きによって、人は祝いを秩序付けることが可能になった。誕生日であれクリスマスであれ、決まった日付があるために人は楽しみを憶える。逆にもしそれがなければ、祝われる瞬間は不定となり、楽しみにするという感覚を忘れてしまうであろう。このように、誕生日という一種の概念は人間の楽しさを操作しているのである。