情報工学の講義を担当している教官が、講義中、客人の接待のために一時教室から抜けた。その間我々は、教官に、自分が書いたテキストの○○ページに間違っている箇所があるから、そこを探すようにと命じられた。
探索範囲が1ページだったので、すぐに箇所は知れた。モンテカルロ法による円周率の求め方の解説で、それは次のような文であった。

(前略)
したがって、n 個砂粒を(でたらめに)ばらまく実験をして、円内に入った点を数えて、それが m 個だったとすれば、π ≒ 4m/n により推定できる。
この場合もばらまく砂粒の数 M を大きくすれば、推定値は正確になっていく。
(後略)

私はこれを、後半にある「ばらまく砂粒の数 M」は、「ばらまく砂粒の数 n」の間違いであろうと踏んだ。ところがそれを戻ってきた教官に話すと、彼は、それは違うと言った。
彼は、私が M は n の間違いであると主張していたのに対し、逆に n を M の間違いで印刷していたつもりでいたようだった。もちろん私が言ったことも事実に反しているわけではなかったが、なるほどそういう見方もあったかと、少しだけ驚いた気分になった。
私は決して揚げ足を取りたい気分でこういうことを書いているのではない。第一、これだけ些細なことのみをいちいち話題に出して語ろうとも思っていない。私はこの出来事から、感じたことがあったのである。
それは、間違いの指摘というものは、指摘する人の価値観に依存しているというものである。
他人の価値観に依存した指摘なら「間違い」の指摘にはならないので、これは当然といっては当然なのであるが、最終的に間違いを判断する中心が指摘する人というのは、実に興味深いことなのである。そもそも間違いというものは、根底の事実があって、そこに反しているということである。しかし、その根底の事実を判断するのにも一人の人間がので、その解釈によって物事の良し悪しが大きく変わってくるわけである。
今日の、M と n の出来事から得たものは、もっと大きなものに拡張できると思った。今回は M と n が単なる自然数だったから良かったが、自然数でなかった場合、例えば M と n が人の考え方だった場合はどうなるであろうか。例えば、私たちは現在普通に左手で握手をしたりパンをちぎったりするわけであるが、言うまでもなくこれをタイですることはできない。これは、前述した私と教官の出来事のように、M と n どちらを間違いととるかによるものであろうと思う。
身近な例では、小学校時代は敬われていた先生が、中学に入るとまるっきり逆の状態、ということが例として挙げられよう。
これらの例を初めとして、どちらが多数派となるかで間違いが決定される問題というのは少なくない。辺りを見渡して、大衆から間違いと蔑まれているものが果たして根底の事実に反しているのか、自分でかみ締めることが重要なのではないだろうか。